ゆとり文〜ゆとり世代の書く感想文〜

哲学的なことや心理学的な事を考える事が好きです。色んな人と意見交換できたらなーと思ってます。

理想について考えてみたら変な結論が出た

理想と現実のギャップが大きいと、自己否定につながります。理想と現実の乖離をなんとかする為に必要なのは理想をあきらめる事なのか、現実がキツくても理想に向けて突き進む事なのか。今日はその事について考えてみたところ、思わぬ結論が出ました。

 

まず第一に、その理想の設定は正しいのか?

そもそも、今持っている理想の自分の像というのは本当に理想なのかという事について考えてみました。

その理想の姿はなぜ生まれているのでしょう?現状の自分をふまえ純粋にこうありたいと思った姿なのでしょうか?それとも、他者との比較から生まれたコンプレックスから生まれたものなのでしょうか?

もし後者であれば、考え直す必要があると思います。コンプレックスは他者と比べた時に劣っていると感じることにより生じます。そのため、基準が他者の状態に左右されます。そうすると自分の理想の姿が自分で測定できないものとなってしまい、理想を達成したか否かの基準があやふやなものとなります。また、身長が低いから高くなりたい、といった実現不可能な理想の姿を作り出す要因にもなりえます。

一方で前者は理想と現状がどれだけはなれているかについて他者という要因は関係しません。そのため、自分との比較のみで理想にそれだけ近づいているかを知る事ができます。

では、理想の設定にコンプレックスが起点とならない為にはどうすればいいのでしょうか?

それには現状の自分を許容できる心が鍵となります。現状の自分を許容する事ができていれば、他者との比較で苦しみコンプレックスを感じる事もないでしょう。コンプレックスを感じないため、それが起点となる理想の姿も描きません。

 

コンプレックス以外の理由で理想の姿を描く事はあるのか?

アドラー心理学では優越性の追求は人間が誰でも持つものだとしています。人は誰でも今よりもよくあろうとするという本能を持っているといいかえる事ができるしょう。

しかし、それは本当なのでしょうか?

正直僕は、それがよくわかりません。僕には怠惰に日々を過ごしたい、朝もっと寝ていたい、ぬくぬくと海辺で寝転んでいたいという感情があります。常に優越性を追求しているとは思えないのです。むしろ、人間は怠惰を好む生き物だと考えています。そのため、理想の姿を正しく描く事は不可能なんじゃないかと思うのです。

 

でも怠惰ばかりの日々は苦しい

しかし、ダラダラしてばかりの日々を思い返してみると、それはとても辛かったことを思いだします。日々にハリがないというか、刺激がないのです。何が起こっても他人事のように思えてしまう、これは自堕落な生活をした人なら共感してくれると思います。

 

その場の自堕落な欲求より素晴らしいものが優位性の追求なのか?

そう考えると、怠惰な欲求よりも優位性の追求に従った方が楽しいと言えるのかもしれません。

しかし、どちらも純粋な僕の感情です。どちらも本物です。しかし、この2つの欲求から1つを選ぶ必要があります。過去の経験から行くと、優位性の追求を選んだ方がいいのでしょう。では、なぜ怠惰な欲求が生まれるのでしょうか?なぜ2つは正反対の向きを向いているのでしょうか?

 

自堕落な欲求は体から来る欲求、優位性の追求は心の欲求という仮定

もっと寝たい、動きたくないという欲求は体の異常からくるものとします。体が休憩を欲しがっているから、動く事に対してストップをかけているという考えです。これは生物として理にかなっているし、非常に納得がいくように思えます。

一方で優位性の追求は心の欲求であるのではないかと考えました。より良い自分であろうという感情は、心が起点となって生み出しているという考えです。

この2つの仮定が正しければ、この2つが矛盾する事の説明がつくのではないでしょうか。

 

結論:自堕落な欲求と優位性の欲求のどちらにも耳を貸すべき

自堕落な欲求と優位性の欲求はどちらも本物です。僕の考えが正しければ、どちらかを無視すれば体か心のどちらかが犠牲となります。そうならないためにも、一見矛盾しているようなこの2つの感情をどちらも素直に受け入れる必要があるのでしょう。

とりあえず、僕は今自堕落な欲求が大きくなってきたのでそろそろ寝る事にします。