個人の哲学は論理的でなくても正しい。
個人の哲学は論理的に完成されている必要はないんじゃないかと思いました。そもそも、そんなこと論理的に考える必要もないし、そんなこと考えてる人自体少数なんじゃないかと思うんです。
個人の哲学は論理的に成立してなくていい。
他の人と自分の哲学について最近話す事が何度かありました。時には酒の勢いも借り、その人の背景にある考えを知ろうとしました。そして聞いて、それについての感想を言い、さらに自分の哲学について話をしました。
その中で、話を聞いていると相手の哲学の粗に目がいきます。矛盾している点や、話が飛躍してしまっている点などに気付きます。それについて指摘をしたくなり、深く掘り下げて聞いてしまう事が多々ありました。その度に、嫌な顔をされました。
逆に、僕の哲学の粗を突かれる事もありました。その時点ではなんとか反論しようとしてみるものの、自分でも認めざるをえないほどの論理の破綻に気付く事が何度もありました。その度に、僕は嫌な気持ちになりました。
そんな事をしているうちに、誰も哲学を完璧に突き詰めている人はいないんじゃないかということに気付きました。ただ、それと同時にその哲学はその持ち主にとっては本物だという事も確かです。
それはつまり、哲学の論理的な完成度は問題ではないということを意味しているのではないかということです。自分の哲学について自分はどう思うか、それが全てなのではないのかと思うのです。
なので、他者の哲学より自分の哲学が深く考えられているから優れているとか、他者の哲学によって自分の哲学が論破されて悔しがるとか感じるのはおかしいことなのでしょう。今までそこで感じていた感情は、ただ単にディスカッションの勝敗によるものだったのでしょう。
個人の哲学は何者にも否定できない
人それぞれが抱く哲学に優劣を付けられないということは、同時に個人の持っている哲学は誰にも否定できないものだということを表しています。そしてそれは、「何が正しいと思うか」は誰にも否定できないという事にも繋がります。
この考えを元にすると「なんとなくこれが正しい」という意見も、「理路整然とした理由がある上でこれが正しい」と思う判断も同価値と言えます。
何の為に人は自分の考えをまとめようとするのか
論理立てて整理した哲学と何も考えてないでできあがった哲学が同価値であるなら、自分の哲学について考える意味はなんなのでしょうか。
僕の場合は考えずにいられないからだという結論に達しました。自分の中でもやもやした気持ちがあると、それを解明せずにはいられないのです。そして自分の哲学を理解する事によってモヤモヤを解消し、心の平穏が保てる気がするのです。
だとしたら、他人の哲学が論理破綻していようが、自分の哲学が矛盾していようが、別に気にしなくてもいいんじゃないでしょうか。
理想について考えてみたら変な結論が出た
理想と現実のギャップが大きいと、自己否定につながります。理想と現実の乖離をなんとかする為に必要なのは理想をあきらめる事なのか、現実がキツくても理想に向けて突き進む事なのか。今日はその事について考えてみたところ、思わぬ結論が出ました。
まず第一に、その理想の設定は正しいのか?
そもそも、今持っている理想の自分の像というのは本当に理想なのかという事について考えてみました。
その理想の姿はなぜ生まれているのでしょう?現状の自分をふまえ純粋にこうありたいと思った姿なのでしょうか?それとも、他者との比較から生まれたコンプレックスから生まれたものなのでしょうか?
もし後者であれば、考え直す必要があると思います。コンプレックスは他者と比べた時に劣っていると感じることにより生じます。そのため、基準が他者の状態に左右されます。そうすると自分の理想の姿が自分で測定できないものとなってしまい、理想を達成したか否かの基準があやふやなものとなります。また、身長が低いから高くなりたい、といった実現不可能な理想の姿を作り出す要因にもなりえます。
一方で前者は理想と現状がどれだけはなれているかについて他者という要因は関係しません。そのため、自分との比較のみで理想にそれだけ近づいているかを知る事ができます。
では、理想の設定にコンプレックスが起点とならない為にはどうすればいいのでしょうか?
それには現状の自分を許容できる心が鍵となります。現状の自分を許容する事ができていれば、他者との比較で苦しみコンプレックスを感じる事もないでしょう。コンプレックスを感じないため、それが起点となる理想の姿も描きません。
コンプレックス以外の理由で理想の姿を描く事はあるのか?
アドラー心理学では優越性の追求は人間が誰でも持つものだとしています。人は誰でも今よりもよくあろうとするという本能を持っているといいかえる事ができるしょう。
しかし、それは本当なのでしょうか?
正直僕は、それがよくわかりません。僕には怠惰に日々を過ごしたい、朝もっと寝ていたい、ぬくぬくと海辺で寝転んでいたいという感情があります。常に優越性を追求しているとは思えないのです。むしろ、人間は怠惰を好む生き物だと考えています。そのため、理想の姿を正しく描く事は不可能なんじゃないかと思うのです。
でも怠惰ばかりの日々は苦しい
しかし、ダラダラしてばかりの日々を思い返してみると、それはとても辛かったことを思いだします。日々にハリがないというか、刺激がないのです。何が起こっても他人事のように思えてしまう、これは自堕落な生活をした人なら共感してくれると思います。
その場の自堕落な欲求より素晴らしいものが優位性の追求なのか?
そう考えると、怠惰な欲求よりも優位性の追求に従った方が楽しいと言えるのかもしれません。
しかし、どちらも純粋な僕の感情です。どちらも本物です。しかし、この2つの欲求から1つを選ぶ必要があります。過去の経験から行くと、優位性の追求を選んだ方がいいのでしょう。では、なぜ怠惰な欲求が生まれるのでしょうか?なぜ2つは正反対の向きを向いているのでしょうか?
自堕落な欲求は体から来る欲求、優位性の追求は心の欲求という仮定
もっと寝たい、動きたくないという欲求は体の異常からくるものとします。体が休憩を欲しがっているから、動く事に対してストップをかけているという考えです。これは生物として理にかなっているし、非常に納得がいくように思えます。
一方で優位性の追求は心の欲求であるのではないかと考えました。より良い自分であろうという感情は、心が起点となって生み出しているという考えです。
この2つの仮定が正しければ、この2つが矛盾する事の説明がつくのではないでしょうか。
結論:自堕落な欲求と優位性の欲求のどちらにも耳を貸すべき
自堕落な欲求と優位性の欲求はどちらも本物です。僕の考えが正しければ、どちらかを無視すれば体か心のどちらかが犠牲となります。そうならないためにも、一見矛盾しているようなこの2つの感情をどちらも素直に受け入れる必要があるのでしょう。
とりあえず、僕は今自堕落な欲求が大きくなってきたのでそろそろ寝る事にします。